よしなしごとの最近のブログ記事
梅雨明けてから1週間くらい来たな・・と思える茹だる夏の日が到来したのですがその後は温暖化という言葉があんまり聞こえなくなってきたくらい最高気温が行っても30度前後の日が続く有様。こちら酷暑地域ではありがたいことこの上ないです。
シソを軒先の一角に植えてあるんですが、起床したら小さい蛙が2匹乗ってました。昨日はバッタが2匹乗ってたんですが。。どっちにしても擬態してるのでわかりにくいです。
こんなちっこいのがそこいらに沢山います。なかなかいい味だしてます。
今年は庭にあまりに雑草がほきてしまったので畑計画は来年に持ち越しなのですが、プレ作業ということでシソ科オンパレード。とはいえシソとバジルの2種類ですがなかなかいい感じに育ってくれてます。寒暖差が激しいところなので京野菜ものを来年は狙っています。やっぱり折角なら買うと高いやつがいいですな。
理由が箇条書きで淡々と示される場合、できない"理由"ではなくてやらない"言い訳"であることが多いなあ。
この手のものはお役所の返答みたいで人間味がなくて事務的であったり。
それでもって、その言い訳の本質がその文体の体面とは反して、お恥ずかしい・・これは言い訳じゃなくて"理由"がチラチラ見える。
まあだいたい、その箇条書きにされてる言い訳の内容が他者のせいにされてることがおおいですね・・お客さんがこう望んでるからとか、彼のバンドだしとか、前例がないとか。
私が察するにこの類の言い訳にドーンと隠されている・・というか言い訳が軽薄すぎて食み出て見えちゃってる理由が間柄が親しければ寂しくさせてくれますし、そうでもない相手だったら幻滅・・というか限界が見えちゃうというか。。
お役所仕事が市民から好かれない一端はこの箇条書きの理由にあると思うんですが、これと同じことをやる人が意外と多かったここ何年間。
その方法とか価値観で音楽ってできるの? それは音楽じゃなくて楽器弾いてるだけ・機材いじってるだけじゃん。とか思ったり思わなかったり。
私はそんなに偉くないので、それを理由に音楽をやめてしまうようなことはできないんですが終わるまでのガマンができるようになった、、といいますか、そういった雑音をカットして現場にベストを尽くそうとポジティブに挑めるようになったのはごく最近のことです。でも、やっぱりそういうのは嫌ですね。。仕事は選びませんが。。
論文を見せてもらってまず経験ないんだなあ・・レベル低いなあと思ってしまうのは
「~だと思う」という接尾。
論じているのに「~だと思う」ってのは・・じゃああたしは「いや、そうじゃない。~だ。」って言いきられた時点で、それが正論かどうかに関わらず負けなんですね。
助詞とか文末のニュアンスとか、そういうさり気ないところに思索レベルと時間のかけかたが出てしまうとわたしは思ってしまいますし、もちろんわたしの価値判断においてですが私自身外したことはないと言い切れます。
ショーペンハウエルが
「哲学は他者を相容れない文学、喧嘩する文学、詩文は他者の共感を呼ぶ文学」
というようなことを正確ではないですが書いていましたが、全くその通りだと感じます。
哲学する人が大事な意思表示をして「~だと思う」なんていうのは愚の骨頂。読書の量を質に還元させる能力に乏しいか勉強不足といわれても仕方ないと・・・"思います。"
もちろん、これを会議だのなんらかのディスカッションでやったら嫌われますわね。。嫌われても良いってほどあたしは強くないので、どこでもこのようにってのは無理です。場所わきまえて文体を使い分けてこそと、そう心がけているわけです。ハイ。
常識という概念は非常識を断罪するために存在すると。
いわば常識とはルールみたいなものでその世界での常識が個々にある。法律とか掟とかいうものに近いが大きく違うのがその罰則が規程されないところにある。
そういった観点からすれば法律も常識の傘下にある、というか
常識をもとに法が整備されている・・と言えるだろう。
その領域の常識を破って、かつ法に抵触しない場合・・そしてその制裁が行われる場合には陰湿なものであることも多い。
「わかっとけよ」
というのが制裁する側の本音であろうから、あえて説くこともないのであろう。
はたして常識に間違いはないのか?もしくは常識を適合させるのが正しいのか。それを判断するのが良識。
A領域の常識と、B領域の常識で相いれない部分があった場合、AとBの折り合いが付けられるのは第三者AでもBでもないCという常識であり、これが良識なのかと。良識を持っている人は賢者で実にそういった人間に出会えることは稀である。少なくとも私の知る限りでは・・私含めて・・・どうなんだろう。
はたして自分がAの当事者であったとき、Bに対してどうやっても曲げられない、無謬である常識Aを持っていたとして
Aをつらぬくのか、AをこらえてBに合わせるのか・・・
それを判断できるのは良識であるCである。
当事者である自分でありながら良識者Cになろうとすることは苦行に等しく
その人にとって本当に常識と言えるものであれば精神的に高度な部分で乖離するはず。きわめて理性的であるが一つの精神として一致するはずがない。
常識と常識が相容れないときに戦争も起こるだろうし、昵懇の仲も犬猿の仲になるのだろうねえ。
常識は他の常識に対してその能力、思考に大きな差があっても尊敬することはなく、常に対等なのである。
他者に尊敬できる限り、常識は良識であることができる。ただ、確乎たる思索がなければ己の良識で己の常識を破壊しかねない。譲れない一線は生命線。そこを越境されたら、色んな意味で辞めるしかないのである。
最近テレビ見てたりインターネットでニュース見てたりすると簡単に「号泣」という言葉が出てくるからびっくりします。
「記者会見で号泣」
とか、でてきますゆえに巷に号泣という言葉が蔓延してきた当初には(最近ですよね)かなりびっくりしました。
記者会見で「わーん」って声をあげて泣くってのは何があったんだべし?と思ってみてると
単に目に涙をためてるだけだったり、ちょっと嗚咽するくらいだったり。。
なんかの歴史小説もので、泣くには3種類ほどあって哭・号・泣で
まあ哭ってのは泣くわ、叫ぶわ・・号ってのは声はあげるけど涙はしない、涙だけ流すのが泣だったかと思うのですよ。
自力で調べたわけでもなく、調べようとも思ったわけでなくてかなーり昔の読書中に「ふーん」と思ったことの受け売りというやつですけれども、それでも号泣はやっぱり声は書いて字の如く号令するの号ですから号してもらわないとあからさまな誤用・・っていうか紛らわしいと思うのですけれども、こう思うのは年齢重ねたせいでしょうか。。
先日はパナソニックのDT9を奇跡的に手に入れることができたですが、なんとまたしばらく探していたドデカホーンの最高傑作CFD-900もゲットすることができました。これはなんちゃらオークションです。
状態はなかなか良いです。リモコンもちゃんとあります。
表示窓のバックライトが麦球なのでこの手のものだと切れてしまっているのが結構ありますが、これも一つ切れちゃってました。右下なので目立たないですが、でも気になる・・・・。
ざっと分解して中開けるとこんな感じです。イカ釣り漁船みたいです。
ドンズバの麦球はいまとなっては入手するのが難しい。。流れてる電圧調べると7V程度でした。周辺をひたすらテスターで探すと12Vが流れている部分がありました。ってことはこの際LED化してしまおうと思います。久々に使うの楽しみ定電流ダイオード!!
テキトウに回路作ってつけてみました。・・が青いLEDしか持っておらず液晶表示させてみたんですが、どうもデフォルトのオレンジ色の威圧感が懐かしくなってしまうのと、ドデカに対するリスペクトが私の中で失われてしまう感じがしてやめました。。
また今度部品調達してトライし直します。。



最近のコメント
ベニ on ソノ実デ判断セヨ。: でしょうね・・・。そ
いち on ソノ実デ判断セヨ。: やっべーぞ!やっべー
ベニ on ライブ有り枡: おおゴージャスですな
ベニ on にょろり: かわいいでせう? や
hina on ライブ有り枡: あ、今回もスペシャー
hina on にょろり: うぉぉぉ とうとう来
ベニ on にょろり: どーも。
hega on にょろり: 親ばか。
hina on 梅雨明けても猶、: じゃあハウス立てよう